今回は僕が、メイクアップフォーエバーアカデミーパリ校で過ごした九ヶ月間の話をしていきたいと思います。

 

目次

旅立ち

僕は忘れもしない9月7日にフランスに旅立ちました

その日は朝まで、美容学校で一番の親友であったいけてぃーとカラオケで Dragon Ash だけをひたすら歌い続けるという儀式を行ってから一人空港に向かったのです。

 

また別の記事で書いていきますが、その当時、僕はまともに寝ていませんでした。

ですので眠気とともに疲労が襲ってきたのです。

 

気がつくともう成田空港でした。成田空港に着くと、スカンジナビア航空でスカンジナビアを経由してフランスのシャルルドゴール空港に着くルートでした。

 

知らないおっさんと酒を交わした

今でも忘れもしないんですが飛行機に乗ってパッと隣を見ると、めっちゃ白髪の見るからに北欧人だなというおっちゃんが隣に座ってきました。

そして飛行機が離陸して動けるようになった瞬間CAを呼んでスコッチをショットで飲み始めました。

 

こいつっ!!イカしてるなっ!!

 

僕はその時飛行機で酒頼めるんだと知りました。

僕も速攻CAさんを呼んで、スコッチをショットで頼みました。

そしたらそのおっちゃんがにっこり笑って一緒に酒を飲んで話し始めましたとさ。

 

ちなみに僕はその当時英語もフランス語もほぼ話せないに近いぐらいの状態でした。

 

どういう風に話したかって言うと、基本ほとんどのことをテキトーな英語とジェスチャーで話したと思います。

その時の事はあまり記憶がないのですが、楽しかったということだけは覚えています。

気が付いたら僕は酔い潰れて眠っていました。

 

起きたらそこはスカンジナビアでした。

経由するので一度降りなければいけません。

 

スカンジナビアってどこだここ?

って思った記憶があります。

 

英語でもフランス語でもない言語で書いていたので全く何も読めませんでした。

とりあえずシャルルドゴール行きの飛行機に無事乗ることができました。

 

どうでもいい話1

フランスのシャルルドゴール空港に着くと、迎えが来ました。

僕は今でも不思議でしょうがないのですが、頼んでもいないのにTさんと言うメイクアップフォーエバーアカデミーを斡旋してくれた人が、空港までわざわざ迎えに来てくれたのです。

非常にありがたかったのですが、別に一人で行けるし。なんできたんだろと内心思っていました。

 

車の中で何時間かひたすら説教です。

いや、てかこの人って俺のなんだったっけ?

何で俺、なんかよくわからんおっさんに説教されてるんだっけ・・・。

 

とりあえずスコッチ飲み過ぎて、完全な二日酔いだったので、彼の説教は僕の耳から耳へと通り過ぎているだけでした。残念ながら何を話していたか全く記憶にないです。(パリサンジェルマンのホームなんだ、ここ!!ぐらいしか記憶にないです。)

 

その人はパリのメイクアップフォーエバーアカデミーを斡旋してくれた人ですが、僕の記憶にある限りでは手助けは何一つしてもらっていません。

 

斡旋どころか全てを自分でやりなさいとの事で、ぶん投げ放置プレイでした。

ですのでこいつダメだな。仕事しねーじゃねーか。

 

と思い全くあてにしていなかったのです。ひたすら僕の全てに対してダメ出しをして終わっただけだと思います。

 

僕はパリに行くまで、そしてパリに行ってからも、自分の力でそれこそ死ぬ気で必死に生きていました。

 

確かに助けてもらったら、恩を感じたり、感謝したりするのですが、

その人は、放置プレイで何もしなかったのに、なぜかまるで自分がやってやったんだよっていうような態度でマウントを取ってくるので、

 

とりあえず・・・無視しました・・・。

 

 

・・・。

 

 

パリ到着

パリに着いた初日は僕の住む家に行ったのですが、そこで僕はルームシェアをすることになっていました。

一緒に住むシェアメイトは、フランス語と日本語が話せるフランス人と日本人のハーフの人でした。

名前はあまり言わない方がいいと思うので 、MJ 君とでもしておきましょう。

*マイケルジョーダンだと思ってくださいませ。

 

なぜ僕が MJくんの家にルームシェアをすることになったと言うと、話は7日前にさかのぼります。

 

空白の7日間

家を失った

僕は8月31日に家を失いました。

なぜかと言うと、その時東京で一人暮らしをしていたのですが、9月7日までいるともう1か月分家賃がかかるよって言われたからです。

 

まあ今となって考えてみると、7日分の家賃は日割りで交渉してみる。という方法があったのですが、その時まだそういうことも知らないようなクソガキでしたので、僕は、9月1日から9月7日の日本を出発するまで家がなかった状態です。

 

傑作ですよね。

バイトしていたバーに泊まったり、友達の家に泊めさせてもらったり、公園のベンチで寝たりしていました。

 

そうなんです。七日間ちゃんとしたところで寝てないんです。

9月7日に確か美容師免許の国家試験があったのですが、国家試験のある日までまともに勉強できなかったのです。

 

ビザがまだ取れていなかった

なぜならパリで住む家が決まっていなかったからです。

僕はかなり焦っていました。

家が決まっていないということは、学生ビザも取れていないということです。

 

9月7日にフランスに行くのに、9月になってもまだビザが下りてないという絶望的な状況だったんです。

 

その当時、今では Facebook や Twitter などの SNS と呼ばれているものは、存在しませんでした。

代わりにmixi というものは存在していたのですが、今では誰もmixiをやっている人はいませんよね。

 

その mixi のコミュニティの中でたまたまルームシェアを募集していたんです。

僕は速攻メールを送って本当にフランスに行くギリギリ3日前ぐらいに家が決まったのです。

 

そしてフランス大使館に問い合わせるとその mixi のやり取りをコピーして持って来いと言われました。

 

それで正確な住所が確認できたので、学生ビザを発行してもらう事ができたのです。

 

ビザを取れたのが国家試験の前日だったと思います。

そして国家試験の当日までバーのバイトをしていたのでほぼ寝ていません。

むしろ7日間まともに寝ていない中での、ビザの問題や家の問題もあったので相当精神的な負担がかかっていた気がします。

 

美容師国家試験当日

今でもなぜ国家試験を合格することができたのが不思議でしょうがありません。

試験の当日は、多分僕としても相当[無我の境地]だったと思います。

一切勉強していません。

国家試験前の対策として、何枚かのポイントが書かれたプリントを渡されていたのですが、その会場に行くまでの電車の中でパラパラと見ていただけだったと思います。

 

本当に記憶がないんです。

パラパラと対策プリントを見て、そのまま寝て気づいたら会場についていました。

 

そして国家試験中に普通に寝てしまっていたのです。

 

傑作ですよね。

試験中に寝ているような馬鹿は僕以外にいなかったと思います。

眠気と戦いながらプリントの内容を思い出して、それに当てはまるように回答を記入しました。

気がついたらまた寝てて、起きてまた答案用紙に答えを書いていくということを繰り返しました。

 

僕は終わったなと思いました。

美容師免許取れないままでパリに行くのかぁ。

 

僕は全く受かるだろうという自信がありませんでした。

確実に落ちたと思いました。

 

試験の半分以上寝ていたのですから。

 

当時を思い出しながら今書いていて、笑えますね。

その時、僕は相当な精神状態の中でほぼ寝ていないという。

 

その状況の中で本当にちょこっとプリントペラペラめくっただけで、多分潜在意識の中に全てをコピーしたんでしょうね。

 

じゃなければ受かるわけがありません。

 

えぇ、そのまさかです。

受かっていたんです!!

 

試験の記憶がない。

気がついたら終わっていた。

 

国家試験の合格の通知はパリについて1ヶ月後ぐらいだったと思います。

親からメールが来て国家試験受かったよと。

 

ですがその時には知る由もありません。

僕は一時間後にはもう美容師免許のことなんて忘れていました。

 

次の日の朝フランスへと飛び立つのですから。

ですが準備といっても何もありません。

その当時住んでいた家の近くのよくわかんないリサイクルショップで、ボロボロのスーツケースを買っていました。

それに自分の必要最低限のものを入れて、あとは全部捨てたり、友達にあげたりしていました。

 

そして7日間、友達の家やバイトしていたバーで泊めさせてもらったり、野宿したりという風なことをしていたのです。

 

さよならだけが人生だ

初めに戻ります。僕は国家試験が終わったその日の夜はいけてぃーと言う専門時代で一番仲の良かった友達と朝までひたすらカラオケをしていたのです。

 

しかもカラオケのすべての曲が Dragon Ash 縛りという。

 

朝になり、これで日本に帰ってくることはないんだろうな。

いけてぃーが最後の見送ってくれる人だったのです。

 

今もあるかどうか分かりませんが、原宿の明治通りのカラオケ館です。

その時の朝焼けがやけに目にしみた記憶があります。

朝焼けサンセットでした。

 

それ以外は誰も僕が今日フランスに出発するなんて知りません。

親すら知らなかったのです。

さよならだけが人生だという言葉がありますが、まさしくそんな感じでした。

 

専門学校卒業する時の卒業パーティーで僕は号泣した記憶があります。

僕が専門学校で過ごした日々は、初めて青森から東京へ上京した日から今まで頑張ってきた記憶。

 

辛くて楽しかった記憶。そういうものが頭の中に流れこんで、これでみんなともう会えなくなるんだろうなと考えると号泣してしまったのです。

その時の友達や仲間はもしかしたらもう僕のことを覚えていないかもしれません。

 

ですが僕はあの時過ごした日々全て記憶しています。

本当に楽しかったです。

ですので僕は成田空港であまり号泣したくなかったので誰にも伝えませんでした。

 

いけてぃーだけが僕が今日旅たつことを知っていたのです。

彼は今ではすごいヘアメイクです。多分。

 

フェイスブックを見る限りでは、ボディビルダーの大会に出場したり、沖縄に移住していたり・・・。

 

えぇ、楽しく人生を過ごしていることでしょう。

 

僕の友達は、僕と同じ様な感じの人が多いです。

大体、頭のネジ30本ぐらいないですね・・・。

 

 

Parisの洗礼

空っぽの部屋

僕がMJくんの家に着いた時、部屋には何もありませんでした。

本当に空っぽの部屋でした。

ベッドも何もありません。

 

毛布もありません。

その日は空っぽの部屋の真ん中でうずくまるように眠っていたのです。

 

ぱっと朝起きるとそこはフランスでした。

当たり前ですよね。

 

パリに昨日来たんですから。

でも1日でこんなに景色が環境が変わるとは凄いですよね。

 

支度をして学校に行きました。

 

どうでもいい話2

本当は学校に行く時間は10時までに登校という予定でしたが、メイクアップフォエバーアカデミーを斡旋してくれたTさんが、1時間ぐらい前に学校の近くのカフェに呼び出してクロワッサンと1杯のカフェを奢ってもらったんです。

 

その時また説教です。

今度は朝一だったので、説教内容をばっちり覚えてい・・・ませんでした。

全く覚えてないです。

 

僕はその時分からなかったのですが、大体パリに長く住んでいる日本人は、新しく渡仏してくる日本人にマウントを取りたがる習性を持っている生物です。

 

この人は僕に対してマウントを取っていると思っているのですが、僕の脳みそは都合良くできており、どうでもいい人の話や存在は、BGMとなり、記憶から勝手に消去されるという「どうでもいい奴自動消去機能」が付いています。

 

せっかく説教しても全てが無駄だったということですね。

 

・・・。

 

スペシャルな日本人

実はメイクアップフォーエバーアカデミーでは、その日は8日だったのですが、7日に入学式的なものがあったらしいです。

 

日本のように大々的な入学式という感じではないと思いますが、その頃には空の上で、おっちゃんと一緒にスコッチ飲んでいたんで知る由もありません。

 

その時、学校ではこれで全員ではない。

日本からスペシャルな奴が明日来る。

 

今日はそのための試験を受けて来れないんだ。という風に噂になっていたのです。

 

これもまた傑作ですよね。

もちろん僕はスペシャルでも凄くも何でもありません。

美容師の経験もない。ただ美容師の国家試験を受けていただけなのに、どうして日本からなんかスペシャルなやつが来るという風になっているのでしょうか!?

 

それを T さんから今初めて聞きました。

めっちゃ期待されてるから。

なんか自己紹介あるかもしれないからよろしく。

 

絶対このおっさんだな!!このおっさんなんか余計な事言ったしか考えられんっ!!

僕はこの事だけは覚えています。

なぜならこの後の事をあれから10年以上経っても覚えているからです。

 

それから学校に着いたのは僕が一番初めでした。

続々と生徒たちが登校してきます。

 

僕は来る人ほとんどにBonjour[ボンジュール]と挨拶していました。

本当に今思い返すと笑えてきます。

 

パリに来て初めてのボンジュールが登校してくるクラスメイトへの連続ボンジュールでした。

 

拙い発音でした・・・

 

Parisの洗礼

そしてみんながそろって朝の講義がスタートしました。

僕は当時、フランス語が話せたかというと、先ほどいっていたBonjourとMerci[メルシー]ありがとうですね。

あと数字を10まで話せる程度だったのです。

 

まー全く話せない状態だったのです。

朝の講義中に先生は僕の方を向いて、多分自己紹介をしてくれと言ったんでしょうね。

 

僕はみんなの前に出て自己紹介をしました。

想像してみてください。

 

日本からスペシャルな奴が来ると相当期待されている中で、みんなの前に立たされて自己紹介をしろと言われたのです。

 

そして僕自身はフランス語も英語も喋れません。

 

さてその状況をどう乗り切ったと思いますか?

 

シーンと静まり返った中で全員の視線は僕に集まっています。

 

僕はゴクリと唾を飲みゆっくりとはじめの一言目を発したのです。

 

 

Bonjour

 

 

拙い発音で挨拶し、それから Im Hiroaki Fukikoshi と言ったのです。

 

そこからは覚えていません。必死でした。

脳みそをフル回転させても出てくる事は、飛行機でおっちゃんと飲んだスコッチうまかったなーしか出てきません。

 

よくわからない英語のような言語と、ジェスチャーでひたすら一生懸命話していた気がします。

 

さてみんなの反応はどうだったでしょうか。

非常にシラーっとしてました。

その時のみんなの顔は僕は今でも覚えています。

 

まるでゴミを見るかのような…

すごいガッカリして先生がもう下がってちょうだいって。そんな感じでした。

 

ここから僕のパリ生活がスタートしたのです。

 

一番初めにパリに着いた初日に

通称

Parisの洗礼

を思う存分受けたのです。

 

Parisの洗礼2

午前の講義が終わるとみんなどっかに行きました。

 

僕は特に何もすることがないので学校に残っていました。

そしたら先生がすごい勢いで僕にカチキレてきたのです。

大きな身振り手振りで僕に何か伝えているのです。

 

今すぐ外に出なさい!的な。

シッシッて野良猫追い払う的な。

 

僕は意味が分からなかったです。

 

確かに僕一人しか学校の中にいませんでした。

その当時、フランス語を理解することができなかったので、なんて言っていたのか分かりません。

 

たぶん講義の最後に昼の間は学校閉めるから。学校に入らないように。

と言ったのでしょう。

 

じゃなかったらあんなに先生は僕にカチキレするわけがありません

えぇ、その赤髪の先生は叫んでいました!!

シャウトしていたんです。

 

そうなんです。

僕はパリに来た初日にParisの洗礼を受け、そしてシャウトされました。

傑作ですよね。なんだこの茶番は!

 

パリでの初めての食事はケバブだった

僕はとりあえず昼飯を食いに行こうと思ってぶらぶらそこら辺を歩来ました。

そしたらやはりパリでした。

 

近くにはサンラザールという大きい駅がありました。

えぇ、絵画などに出て来るあれです。

 

僕は専門学校の研修旅行の時に一度来ていたので、そこら辺の道を覚えています。

一年ぶりでした。

 

懐かしいなあと思いながら歩いていると今はもうないかもしれないですが、原宿の明治通りにあるようなケバブ屋があったのです。

僕はここでとりあえずケバブを食べました。

パリに来て一番初めて食べた料理がケバブでした。

 

広場のベンチに座ってケバブを食べました。

1年前はこの同じ広場にもう一人友達居たんだっけな。

 

ビネガーが効いていたんでしょうか、

なぜかとてもしょっぱかったような記憶があります。

 

学校生活

相モデル

昼休みが終わり学校に戻ると午後からは実技の講義です。

相モデルとなってメイクをしあうのです。

ですがこの相モデルの探し方が難しかったのです。

 

なぜなら僕はフランス語も英語も喋れません。

 

みんなバンバンと相モデルを組んでメイクに取り掛かっています。

僕はこのままじゃやばい。モタモタしていたら中国人とかと組む事になってしまう。

 

せっかくフランスまで来たのに、アジア人のメイクをするのは意味がない。

なぜなら日本でひたすら日本人にメイクし続けて来たからです。

ヨーロピアンにメイクをしないと何の意味もありません。

 

と言う事でテキトーにそこら辺のフランス人の女の子に声をかけて相モデルになってもらいました。

はいそこでもそうです。

 

カチキレされ続けた日々

言葉が伝わらないので、しょっぱなひたすらカチキレされました。

結局パリについてから、だいたい2週間ぐらいはひたすらみんなにカチキレされていました。

 

今思うと本当に面白いですよね。

よく僕は生きてこれたなと思います。

 

まあその時の苦労に比べると、その後の人生で起こるさまざまの困難は本当にカスみたいにしか思えません。

その時の経験が今の僕を形作っていると言っても過言ではありません。

 

ちょっとやそっとの事では僕は微動だにしません。

鋼の精神力はここで相当鍛えられました。

 

みんなにカチキレされ続け大体2週間ぐらい過ぎていました。

そこで僕はある一つの事に気づいたのです。

 

現地に行ったら言語を自然に話せるようになると言う「嘘」

よく現地に行けば言葉を喋れるようになるって言うじゃないですか。

僕はなんの疑いもなく、それを信じてなんの勉強もせずに言ったのです。

 

てか、僕の専門時代の生活状況を考えると、とても勉強できる余裕などないぐらい働きまくっていたのです。

 

「現地に行けば言葉が喋れるようになる」

 

それはです

 

はい、これはです!!

 

現地に行っても自然に覚えることは100%ありません。

これ間違いです。

僕自身がそうだったんです。

 

僕はそっから本当に人生で一番勉強しただろうというぐらい、もう本当に死ぬほど勉強しまくりました。

勉強しまくってその覚えたフランス語を近くのカフェやバーにいき、そこら辺のフランス人捕まえて話し相手になってもらったり、学校では積極的に一番イケてるだろうグループの中に突撃していってました。

 

学校で一番イケてるだろうグループに突撃!

全く話せないんだけど、学校で一番イケてるだろうグループの中にいるということを毎日していたのです。

もちろんそのグループは僕のことはフルシカトです。

 

完璧にそこに存在していなかったですね。

しかし、僕は失うものは何もなかったのです。こいつらに嫌われようが俺に何の問題もねーな。それにあまりのフルシカトぶりに流石に僕も苛立ちました。

こうなったら徹底的にやってやろう!!と

 

失うものは何もなかった

その時僕以外に日本人の女の子が2人いました。

初めは日本人ということで仲良かったのですが、2週間後ぐらいを境に一切の交流を断ちました。

なぜならフランス語を一刻も早く覚えたかったからです。

 

せっかくパリに来たのに、日本人とつるんでいたって絶対フランス語は覚えられないと思ったのです。

 

ですので僕は自分を徹底的に追い込み、一番イケてるだろうフランス人たちのグループの中に突撃していったのです。

 

毎日無視され続けられていたのですが、生きたフランス語をずっと聞くことができました。

なんかよくわかんないけど誰かが言ったことに対してみんなが笑っていたら僕も笑います。

 

真剣に一人が話していたら、僕も真剣に聞くふりをしていました。

 

学校終わってからは眠くなるまでひたすら勉強しまくって、学校ではその覚えた言葉を使ってみてと言う事をひたすら繰り返していました。

 

一筋の光

そしたら何ヶ月か経ったある日先生がみんなにこう言ったのです。

「Hiroakiは英語もフランス語も全然できないけど、みんな頑張ってこいつに協力して卒業させてやろう」

多分そう言ったんだと思います。

 

それからみんな積極的に僕と話すようになっています。

そしたらイケてるだろうグループも少しずつ僕に話しかけるようになったのです。

 

しかもそのグループの中のゲイの男の子がなんと日本語ちょっと喋れると言うことが分かったのです。

それには僕もちょっとびっくりしました。

 

なんでお前今まで俺に話さなかった!?

とツッコミどころ満点ですが、まーよしとしましょう。

 

いい奴か悪い奴なのかわからない

イケてるグループではないスペイン人の女の子は僕にフランス語を教えてあげると言ったのです。

 

そしてフランス語講座をしてもらったんですか、どう聞いてもフランス語じゃないです。

たぶんスペイン語訛りのフランス語なんでしょう

 

全然聞き取れませんでした。

でもこの子はすごい一生懸命に僕にフランス語を教えてくれました。

メイクの専門的な分厚い本も持ってきて、メイクとは何かということも教えてくれました。

 

………

 

僕は全然聞き取れませんでした

 

だけどその子はすごい一生懸命に僕に教えてくれるので、僕もなかなか断りにくかったことを覚えています。

 

その子は学校では発音がだいぶスペイン語なまりなんで、何か発言するとみんななぜか爆笑していました。

僕はそれに関してはすごい腹がたった記憶があります。

フランス人クソだな思っていました。

 

まあそれはイケてるだろうグループのやつだったので、このクソみたいなやつらと接して嫌われてもいいと思っていたのでガンガン攻め続けました。

 

そしたら助けてくれるようになったのです。

いい奴なのか悪い奴なのかさっぱりわかりませんでした。

 

まー人ですし、日本とは違い様々な人種が集まって勉強してるので、本当にいろんなドラマがそこにありました。

 

だんだんと打ち解けてきた

そういう風な日々を毎日過ごしていくうちに、だんだんとみんなと打ち解けていったのです。

 

試験がある日や、課題の提出の期限の日にちが掲示板に張り出されるのですが、それが張り出されるや否や、みんな僕のところに来て、この日に試験があるからそれまでに課題を作らなければいけないんだよ。

 

とわざわざ教えに来てくれるんです。

きっと僕は理解してないと思うからなんでしょう。

 

何人ものクラスの子達が僕に大丈夫?理解できてる?と確認してくるのです。

そのうち先生もきました。

みんな僕に確認しに来るのです。

 

アジア人は僕以外に中国人が10人ぐらい、日本人が僕入れて3人、あとはカナダ人2人、アメリカ人が1人、後残り60人ぐらいはフランス人でした。

 

圧倒的にフランス人が多い中、中国人は中国人のグループの中でモデルを組んでいました。

 

僕は絶対そのグループに入ってはいけない思っていました。

アジア人のグループに入ってしまったら、多分もうフランス語も話せないし、せっかく生きたフランス語が近くにあるのに、そしてメイクアップフォーエバーアカデミーと言うこの素晴らしい学校に来た意味がなくなってしまうと全力で拒否し続けて来ました。

 

言っときますが、そこに関しては差別的なことは一切ありません。

ただ今まで散々日本人にメイクし続けて来たのに、またアジア人にメイクするという必要性はないと感じただけです。

 

ヨーロピアンのメイクもできるようにしなければいけません。

そして一刻も早くフランス語を話したいという気持ちはあったのです。

 

メイク学校は9ヶ月だけでした

その9ヶ月間は僕は鮮明に覚えています。

 

本当によく卒業できたなと思ってしまうのです

全ての試験が終わって最後に卒業パーティーがありました。

 

最終試験

最終試験の内容

その前に最終試験についてちょっと話しましょう。

最終試験は何だと思います?

 

ボディアートです

しかもTバック一丁の女の子のすべてにボディーアートをしていくのです。

 

「ちょ、お前ら、それまじで言ってんの!?」

 

なんかゲイの男とか頼んでもいないのに脱ぎ出して、パンツ一丁になったり。

授業中は学校の中がカオスすぎてモザイクかけるしかありませんでしたね。

 

モデル探し

僕は最終試験のモデルを見つけることは最後までできませんでした。

 

相モデルではいけないんですよ。

学校の生徒ではダメなんです。

外からモデルを連れてこなければいけません。

 

これも皆さん想像してみてください。

僕のために裸になってくれとフランス人の女の子に声をかけて裸になってくれる女の子がいると思いますか?

 

僕は散々挑戦しましたよ。失うものが何もないですからね。

 

ですが、全て断られました。

「こいつは頭がいかれているのか!?」

「非常に怪しい」

そうフランス人の女の子に言われ続けられました。

 

試しに日本でそんなことやってみてください。

速攻捕まるでしょう!

 

バベルの塔

見ず知らずの人間に。しかも男に自分の裸を見せる。しかも T バック一丁で!!

 

上?そんなもんありません!!

 

文字通りTバックのみです。しかもベージュ!!

 

相当ハードル高いと思いませんか!?

もうハードルじゃないですよ。

僕の目の前にバベルの塔が立っていましたね。

 

語学もままならない状況で、最後にとてつもなく巨大なバベルの塔が出現したのです。

 

ベージュのTバック

僕はベージュの T バックを探すとこからスタートしたのです。

幸いなことにフランスでは彼女に下着をプレゼントすることはごく当たり前のことです。

 

下着屋に行くと結構男性がいました。そしてベージュの T バックがありました。

僕はベージュのT バックを右手に握りしめ、カウンターに行きました。

 

僕の心臓は高鳴り、手に汗を握り、Tバックも握っていました。

落ち着け、ここはフランスだ。一切の動揺を見せるな。見せたら死ぬぞ。

高鳴る心臓にそう言い聞かせ、自信満々の表情でカウンターまで進みました。

 

Tバックは少し汗ばんでいます。

カウンターでは、レジの綺麗なお姉さんがプレゼントのために包みますか?と聞いて来たのです。

 

男性が下着屋に来て下着を買うということは、女性へのプレゼント意外ありえません。

僕は人生で一番と言っていいほどの速さで脳みそをフル回転させ即座に。

 

お願いしますキリッ

 

一切の動揺をみせずにそう言い切りました。

ここで少しでも動揺したら死を招きます。

 

僕はやりました!!

人生で初めてベージュのT バックを買ったのです!!

店を出た時なんとも言えない達成感なのか、悲壮感なのかそんなものが込み上げて来た事を覚えています。

 

当時二十歳でした。

 

Tバックを買ったはいいものの、その T バックを履いてくれるモデルさんは一向に見つかりません。

どれだけ頑張っても見つからなかったのでそれを先生に正直に言いました。

 

「誰も僕のTバックを履いてくれません」

 

さて先生はどうしたでしょう。

その先生の知り合いの人を紹介してもらって、なんとか無事最終試験を切り抜けることができました。

 

この先生は途中から入ってきたんですが、超美人でこの先生に僕は相当助けられました。

一番初めに僕にカチキレした赤髪の先生はヒステリックかなんだったからしく、しばらく休むとの事でした。

 

実にフランス的ですね…

 

題目はオペラ

最終試験の題目はオペラの曲の何かひとつを選び、それをイメージして自分なりのボディアートをしなさいということでした。

 

そこに関しても難易度が高かったです。

僕は何のオペラの曲にしたかもう記憶にありません。

 

その時は本当に一生懸命でした。

めちゃめちゃオペラについて研究しました。

 

ちなみのオペラを見にいった事は一度もありません。

見に行きたかったのですが、当時僕にはそんな経済的余力はあるわけがありません。

 

体壊すぐらい日本で働きまくって、それでも足りなくてお金を借りてパリまで来たんですから。

金持ちではありません。その代わりひたすら頑張りまくるというハングリー精神。不屈の精神力を身に付けることができました。

 

と言うことで、オペラは見ることができないので、いろんな人に聞いたり、ネットで検索したりしてある程度の情報を頭に入れつつ、最終試験ボディーアートに挑みました。

あまりに自分を追い込みまくっていたので、その時の写真は1枚もありません。

 

そうなんです。

苦労して頑張ったのにボディアートの写真が1枚もないんです。

 

また別のボディーアートの作品の写真はあります。

ですが最終試験の写真はないんです。

非常に残念ですが、本当に頑張りました。

 

卒業パーティー

校長のローキック

最後の卒業パーティーの時にみんな酒を飲んだりお菓子や料理を食べたり楽しみました。

パーティーの日に[ディプロム]というものを校長先生から授与されます。

まあ日本でいう卒業証書です。

 

僕は一番初めに名前を呼ばれました。

何故か僕の名前が呼ばれたらみんな、なんかすごい歓声をあげてるんです。

僕はよくわかんないけどみんなの声援に応えなければいけないと思い、立ち上がりくるっと振り向いてみんなに

 

イェーっ!!

 

と声を高らかにあげ、右手を突き上げたのです!

 

そしたら校長のローキックがすかさず、僕のお尻を思いっきり蹴りあげました。

 

イェーじゃねーよっ

 

 

日本の芸人ばりの激しいツッコミをして来たのです!!

フランス人が!

しかも校長が!

ローキックを!

 

これがフランス人達には非常にウケたらしく爆笑していました。

 

首席

僕はディプロムを頂きました。

後々わかったんですがディプロムの授与は成績順です。

もちろん僕が初めという事は、

 

首席です!!

 

 

そんな訳はありません。

 

最下位と言う事です。

一番初めに言われた=最下位だったのでみんな歓声をあげたのです!!

 

お前は最高だということでしょう。

そして歓声は一番最後にも起こりました!!

今度は感動の歓声です。

一番最後に呼ばれたということは

 

首席

 

ということです。

 

その年のメイクアップフォーエバーアカデミーのトップということです。

 

その子は泣いていました。

僕とは大違いです。

僕もとても感動してしまいました。

その子はめっちゃ頑張ったんだろう。

 

もちろん僕も死ぬほど頑張りました。

言葉の通り、死ぬほど頑張りました。

 

厳しい世界

そしてディプロムをもらえない人が何人かいたのです。

その子たちはつまり試験に落ちたということです。

 

そうなんです。

学費払ったからって普通に勉強してればメイクアップフォーエバーアカデミーのディプロムを貰えるかってそんな簡単なものではありません。

 

また学費を払って再チャレンジすることになります。

フランス人でさえ落ちていました。

実に厳しい世界です。

 

それもそのはず。

 

メイク学校の名門

Make up for ever academy paris [メイクアップフォーエバーアカデミーパリ]

はメイクの世界では名門中の名門です。

 

このパリ校のディプロムを持っていれば、その後の世界的に有名なメイクアップアーティストになる事だってできるぐらい価値の高いものです。

 

ちなみに日本ではなんの価値もありません。誰も知りません。

 

パリコレのヘアメイクなんて余裕でバンバンできます。

 

ですが、僕は今青森の三沢市で美容室を経営しています。

これは100%断言できますが、メイクアップフォーエバーアカデミーパリ校のディプロムを持っている人間は青森に僕一人しかいません!!

 

間違いなく言い切れます!!

 

世界中からこのディプロムを欲しい人が集まってきます。

 

ここに入学するだけでも相当難関です。

そして卒業するのはさらに難しいのです。

 

僕がここを卒業できたのは本当に奇跡でしかありません

 

ですが、今思い返すと奇跡ではなかったと思えます。

 

吹越 広彬の根底

たぶん僕は死ぬほど頑張っていたということを、先生も生徒もみんなわかっていたんでしょう。

 

ですが、死ぬほど頑張っただけで、こんなに価値の高いものは得ることはできません。

確実にそこで結果を出さなければ何も得られないのです。

 

ですが、頑張らなかったら結果は絶対出ません。

僕はこのメイクアップフォーエバーアカデミーで、死ぬほど頑張ってそして結果を出すことができました。

これは後々の僕の美容師、ヘアメイク人生の根底を担っています。

 

ディプロムなんてものは、所詮ただの紙切れです。

僕はここで鋼の精神力とそしてギリギリの世界でイマジネーションして、それを具現化すると言うアーティストとして最も大切な要素を骨の髄まで学んだのです。

 

それこそ僕の中では最も価値のあるものを学んだと思います。

 

史上最悪の卒業生

その後はひたすらみんなと踊りました。

よくわかんないフランスの伝統的なダンスみたいなやつをひたすらみんなと踊ったのです。

 

僕はステップがわかりませんでした。

ですがステップが単調ですので何回かルーティーンを繰り返したら、みんなと合わせて踊ることができました。

一体感というものですかね、その時は本当に楽しかったです。

 

そして先生が僕にこう言ったのです。

 

「お前は史上最悪の卒業生だ」

 

「フランス語も英語も話せない。でもお前は頑張った。頑張って卒業できた」

 

Bien travailler[ビアン トラバイエ]

いい仕事をした。よく学んだ。と言う意味です。

 

今までの歴代の卒業生の中で一番最悪な卒業生だったと。肩をポンと叩かれ満面の笑みで僕にそう言ったのです。

 

まとめ

卒業する頃にはフランス語はだいぶ話せるようになっていました。

これが僕のメイクアップフォーエバーアカデミーで過ごした9ヶ月間です。

 

そしてここから僕のパリ生活はパリコレでのクリスチャンディオール のヘアメイクディレクターになる。

と言う夢に大きく近づいたのです。

 

この話の続きは次回に続きます。

お楽しみに

 

*これらは全て嘘偽りのない完全なるノンフィクションです。ちなみにこれ以外にも相当な出来事がありましたが、それもまた記事にしたいと思います。

 

 

そして、その後の外国人のメイクアップフォーエバーアカデミーパリ校への入学がより一層厳しくなった事は言うまでもありません。

 

 

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